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田園調布・福徳商店街の出来たころ
― 宮門 一興会長(商店会長)に聞く ―
(聞き手 毎日新聞 竹田 令二)
田園調布駅の東側(海側)は、整然とした駅西側(山側)と趣きが違う。街区の区切りも西側が放射状だが、東側は縦横が主流だ。何より西側が住宅地のみとして作られたのに対して、東側は商店街が南北に走る。中でも福徳商店街は最も古い商店街で、駅東口をくだり十字路を右折した1ブロック先から始まり、約1・3km続く。
1977(昭和52)年6月に「福徳商店街親睦会50年の歩み」のために行われた懇談会では、田園調布の開発に伴い、隣接地として1923(大正12)年ころに「調布村高知整理組合」が出来、「畑の中で人の行き来も出来ないような玉石を敷いて、道路を作った」との話がある。
現商店会長の宮門一興さんは2代目、建築材料の宮門商店は商店街の中央より若干北側にある。
宮門会長にお話を伺った。
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【出来たころ】
「昭和3年ころに商店街が出来上がりました。3〜4年に開店したお店が多いと思います。ここに来た当時ほとんどの人は働き盛りの30代でした。私の父も30代でした。駅前から当時はうちのそばまで住宅地と決められていました」
【桜と銀杏】
駅東側は紅葉の季節にはイチョウが美しく秋の彩りの街である。西側は、実は春の彩りの街だった。
「通りの家と家の間に1本ずつ植えてありました。田園調布から洗足まで7000本を植えました。今は、脇の道に面影が残るくらいです」
前出の懇談会の記録によれば、
『今の女学校(調布女子高)の門の前、洋品店からそこの環八に行くまでの通りは花のトンネルで非常に有名になった。戦争中には防空壕をこしらえたけれどもそれにも非常に役立ち、戦後の燃料のない時分、これもいくらか役に立った』
とのこと。
植樹は1929(昭和4)年のことだったという。
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【地図から】(こちらをご覧ください)
宮門会長が1枚の地図をくれた。手書きである。店に勤めていた平田利幸さんが10年前に作ったものだが、平田さん今は80歳過ぎ。「昭和5年ごろの記憶より」と記されている。
「たいした記憶力です。一部違うと思うところもありますが、だいたい間違いありません。たいした記憶力です」
【職人とご用聞きの街】
宮門商店の隣は「バー」。店内は昔の列車の座席のように衝立で区切られていたという。
「この街は職人の町でした。職人たちが山形や岩手から出てきた女給さんと結ばれて所帯を持ちました。鳶、左官、大工。ご用聞きの街でもありました」
線路脇に「松の林」の表示があり、『この林の中は商店の小僧さんたちの井戸端会議の会場でした』と記されている。宝来公園には『夏の暑い日、配達の帰りにはここは軽井沢の涼しさでした』とある。
駅西側の住宅地にある第一生命社長、矢野恒太さん宅には『ここのご主人は配達に行くと必ず手伝って、重いセメントや砂を一緒に運んでくれました。心やさしい人で今でも忘れません』
【今は昔】
今は変わってしまったところも少なくない。何より地図に多い畑、雑木林、竹やぶ、松林などが激減した。野球場は田園コロシアムから田園テニスクラブに。地図の上にある鉄道は、今はない。
「雪ヶ谷から諏訪分、新奥沢へと走っていましたが、昭和6〜7年に廃線になりました」
東京急行電鉄50年史によると、この鉄道は池上電気鉄道線で1928(昭和3)年に開業し、5年後に東急電鉄傘下となり、その2年後の1935(昭和10)年に廃止された。
田園調布駅は往時の面影を復元しつつ、2001 (平成13) 年に地下化した。
地図には当時の物価も見える。『1杯10銭の支那そば』『焼きたての熱いアンパン5銭』など。
多摩川の丸子橋が出来たのが昭和10年、当時は渡し船だった。砂利採掘が盛んな次期である。
「朝鮮の人たちが胸まで川の中に入って砂利や砂を川底から船にあげて生活していましたね。お昼のおかずは赤いトウガラシとタクワンでした」。
川岸には温室村、当時東京1を誇った。
福徳商店街の昭和30年ころ、ビルはなく、空は広い。宮門さんはそれらをカメラに収めている。(「商店街写真館」から当時の様子をご覧ください)
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駅から商店街を歩く。こぎれいなマンション、ビルが目立つ。地方の商店街がシャッター商店街化しているのとは異なり、まだまだ活気はある。しかしバブルで地価が高騰した街でもある。古くからの店の並びは途切れがち。
「2代目、3代目になり、店をたたむ人が増えました。」
街の記憶も薄れがちである。
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