現在の多摩川台公園

 一、大昔の田園調布

 今は田園調布と呼ばれる一帯には、古墳群がある。
現在の多摩川台公園を中心とした地域で、最大のものは400年ころに作られたと見られている亀甲山古墳で長さ100m、後円部の直径60m、高さ9m。
当時この地を納めていた支配者の力の大きさを語る。
これに続いて8基の古墳が西北に並んでいる。
近くに宝来塚古墳や観音塚古墳という前方後円墳もあるが、今は宅地化などで形をとどめていない。
 
 二、田園調布っていつから?

 田園調布という地名は当初なかった。この地域は1890年(明治23年)に調布村となり、1928年(昭和3年)に東調布町となった。調布という地名は東京に3ヵ所あった。古代の税制で「調」に「布」を納めていたことから「調布」の名がついたといわれる。東京には現在の青梅市内、調布市にも調布があったことから、区別するため「東」がつけられた。「田園調布」が地名として登場したのは、田園都市会社による開発が進んだ1925年(大正14年)8月、調布村の一角に誕生した。駅名は1926年(大正15年)に「調布」駅が「田園調布」駅となった。
田園調布駅舎






写真は宝来公園
 三、理想の街、田園都市

 田園都市は英国人都市計画家、エビニーザー・ハワードがその著書「明日の田園都市」で提唱したもので、ハワードの思想は欧州で20世紀の都市づくりや集合住宅の設計などに大きな影響を与えた。“明治財界の大御所”で、田園調布生みの親、子爵、渋沢栄一翁は数回の欧米視察で田園都市の必要性を感じ、1915年(大正4年)、パナマ運河開通記念万国博覧会に出席のため渡米前に、田園都市作りの企画検討を始めた。渡米でその重要性を改めて確認した。その栄一翁の“田園都市”とはどんなものか?
 
「都市生活には自然の要素が欠けている。しかも、都会が膨張すればするほど自然の要素が人間生活の間から欠けていく。その結果、道徳上に悪影響を及ぼすばかりでなく、肉体上にも悪影響をきたして健康を害し、活動力を鈍らし、精神は萎縮してしまい、神経衰弱患者が多くなる。‥‥田園都市というのは簡単に言えば自然を多分に取り入れた都会のことであって、農村と都会とを折衷したような田園趣味の豊かな街をいうのである。‥‥わが国にも田園都市のようなものを造って、都会生活の欠陥を幾分でも補うようにしたいものだと考えていた。」

  現代でも、いや現代だからこそ耳を傾ける必要があることばかりではないか。
 

 
四、栄一翁から秀雄氏へ
 米国からの帰国後、栄一翁は営利活動から身を引いたが、ことあるごとに田園都市構想を説き、1918年(大正7年)に計画ができた。引退していた栄一翁に代わり、翌年、その息子の秀雄氏が田園都市会社の支配人となった。秀雄氏はハワードの考えに基づいて作られた英国の町、レッチワースを訪れるなど計画の具体化に向け、邁進した。秀雄氏の海外で学んだ理想も田園都市の中に多く反映されている。
「大学を出て間もなかった私にとって、文化的な住宅地を開くという仕事は魅力があった。そして、諸学国から集めてきた住宅地の平面図や写真を参考資料として、建築家の矢部金太郎氏に引いてもらったプランの成果が、現在の田園調布界隈にまたがる住宅地である」


 
 


田園テニスクラブ
 


田園調布雙葉学園
 


田園調布富士見会館

五、計画の内容
 計画面積は、洗足地区10万坪、多摩川台地区30万坪で、買収単価は平均で坪3円53銭だったが、現在の田園調布付近は最高8円、最低2円50銭だった。当時商業地として最高だった日本橋は坪3000円だった。地価の安い、田んぼや畑の田園地帯だった。
昔も今も田園調布といえば、駅前のロータリーとそれに続く住宅地。これも秀雄氏がパリ凱旋門の環状線と放射線が交差している形式で、町ぐるみ公園をイメージした。緑地・公園・道路面積が18%と、当時の国内分譲地の5%に対し、3倍以上もあった。さらに上下水道も完備、道路は広く今もある並木が美観を演出した。
 住宅地は土地譲渡契約書で@他人の迷惑のならない建物 A塀は瀟洒、典雅なもの B建物は3階以下 C宅地は敷地の5割以内 D工費は1坪当たり120円以上――など近隣との調和を考えた建築を求めた。住宅地以外の建設は禁止されたが、駅を中心とした一角に店舗地域が定められた。
 また、入居後は住民の自治組織「田園調布会」も作られ、村税問題、夜警問題などで団結して交渉し、さらには消費組合も作られるなど高い住民自治を誇った。
 地域内に居住者のために娯楽場を設置、ここにテニスコートやブランコなどの運動器具を設置、多摩川岸には一大遊園地が計画された。テニスコートは後に田園コロシアムに、遊園地は多摩川園遊園地として実現した。しかし今はいずれも姿を消している。
 都心との交通には省線(現在のJR)、東京市電との連絡に目黒、蒲田を結ぶ目蒲線が、また大井町線も計画、実現された。


 【関東大震災も後押し】
田園調布の売出しを始めてまもない大正12年9月1日に関東大震災が起きた。先に売り出した洗足地区の田園都市には約40戸が建っていたが、被害はほとんどなく、軽井沢から駆けつけた渋沢秀雄氏は次のように記している。
「私は40軒あまりの住宅を一つ一つ見舞って歩いた。最大の被害でも壁に亀裂がはいり、煉瓦がずれ落ちた程度だった。ほとんどの奥さん方が『いいときに家を売っていただきました。もとのうちは焼けております。本当にありがとうございました。』とお礼を言われた。私は商売冥利を感じ、そのとき味わった地獄極楽の体験を土地分譲の新聞広告に書き添えた。」
田園調布地区の第2回の売り出し(10月2日)には「今回の激震は、田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!それは非常口のない活動写真館から、広々とした大公園に移転することです。すべての基本である安住の地を定めるのは今です」と新聞広告にうたい、人気を博した。


(以上、渋沢和男著「我が父 渋沢秀雄」(あずさ書店)、「東京電鉄50年史」、「大田区史」、「大田区の歩み」、六大学野球全集(改造社)などを参考にさせてもらいました。)