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【田園調布温室村】
今はないが、昭和初めの一時期は東京の温室の半分近くを占めていた。ほとんどがアメリカ帰りの新しい農業を学んだ人たちだった。
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「多摩川と道路沿いのいまはどぶのようになっている川(丸子川)の間が、その昔は果樹園でした。私の顔くらい大きく実った梨がなっていました。
遠い親戚が番人のようなことをやっていて、ある日「空気銃を貸してくれといってきました。あとで、梨の被害を与えていたヒヨドリを「こんなに獲れた」と見せに来ました。そこのところがだんだんと温室になっていったのです。
温室村の中に観葉植物を作っている人がいて、中にバナナがなっていました。いま私の家の庭にもバナナがありますが、温室でないと実はなりませんね。」 |
【多摩川の川遊び】
田園調布ができた当時、丸子橋はまだなく、「丸子の渡し」の渡し舟があった。
「昔の多摩川はきれいで、今の丸子橋の下あたりは水が透き通っていて、砂利の一つ一つがはっきり見えたものです。すばらしかった。白魚もたくさん上がってきて皆掬って酢醤油で食べたものです。多摩川では投網をよくやりました。今でも物置には鮎用や鯉用など網の目の異なった何種類かの網がかかっています。登戸にいた網つくりの名人に作らせたもので、60cmくらいの大ナマズを捕まえたこともありました。玄人はだしの腕前でしたよ。」
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【戦争の傷】
田園調布も戦火を免れなかった。1945年3月10日の東京大空襲のときは1軒消失。同4日には新築成った田園調布国民学校新校舎が焼失した。大きな被害は4月15日から16日にかけてのもので田園調布3−4丁目にかけ、火災が発生した。
「田園調布の銀杏並木を歩くと、幹が傷ついているのが何本かあります。空襲のとき、焼夷弾で傷つけられたものです。今はかなり回復していますが、幹がえぐられました。爆弾も落ち、1件の家を吹き飛ばしました。川の向こうは川アの工業地帯です。空襲の明かりで照らされていました。私は海軍の横須賀鎮守府に入隊しました。戦艦「武蔵」や「長門」がいましたが、以前アルゼンチンにいたときに現地でやって貰ったおなかの手術あとが痛み、入院して、療養のため自宅に戻っていました。」


【渋沢 栄一 氏】
1840年2月、武蔵野国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)生まれ。16歳のときから討幕運動に加わり、明治維新後大蔵省入り。その後退官し、実業界入りし、第一国立銀行頭取地に就任、国内の各産業分野にわたり事業を手がけ、日本の近代産業設立に大きな力を発揮した。国際交流にも積極的に尽くし、北区王子の飛鳥山にあった自宅(現在は栄一翁の号をとって青淵文庫として残っている)を訪れた外国人は1000人を超すといわれる。
子爵で、明治財界の大御所であったが、営利の追及も資本の蓄積も道義に合致するものでなければならないという「経済道徳合一説」を唱えた。
1931年(昭和6年)11月、91歳で死去。
幅広い活動とその精神に、立場を超えてその死は悼まれ、短歌雑誌「アララギ」に「青淵翁を悼む」の題で次の一首が掲載された、と秀雄氏が記している。
資本主義を罪悪視するわれなれど君が一代は尊くおもほゆ
【渋沢 秀雄 氏】
1893年(明治25年)10月、東京生まれ。栄一の4男。大学卒業後、1919年に田園都市株式会社の取締役に就任。同社が目黒蒲田電鉄に吸収合併されるまで田園都市作りの先頭に立つ。その後、東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長など実業界で活躍。戦後は随筆活動で活躍。1984年(昭和59年)2月、91歳で死去。
【渋沢 和男 氏】
1916年(大正5年)3月、東京生まれ。秀雄氏の長男。1924年(大正13年)9月にできた電気ホームを当初別荘として、田園調布で育つ。アコーディオン音楽勉強のため、1937年(昭和12年)に渡米し、約3年間でアコーディオンの公認教師の資格を取得。渡欧。再度米国に戻り、1941年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに渡り、ラテン音楽家として活躍。同年11月帰国。戦後はフェルナンド・渋沢の名で、ラテン音楽の演奏、作曲活動を広く行った。2002年11月、1942年に作ったSPレコード盤「ブエノスアイレスの幻想」などがCD盤で復活した。
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