渋沢和男(一雄)さんより聞き書き
(聞き手:毎日新聞・竹田令二)

NO2




【街の変化】

 漫才の星セント・ルイスが「田園調布に家が建つ」というせりふで大人気を博した時代があった。田園調布=大金持ちのイメージが定着した。しかし、田園調布が開発された当時の売却価格は、最も高かった日本橋が坪3000円だったのに対し、1%くらいの価格だった。売れなかった区画を渋沢家が購入したときの地価は42円〜43円(1.4%)という。バブルの時期の値上がりはすさまじく、1988年に田園調布3丁目の宅地は1u410万円に達した。2002年は77万4千円と最高時の19%にまでさがった。

 「いつでしたか、一時地価が坪2000万円にもなったころがありました。そのころから古くからの住民が、地価上昇に伴う税金負担などで住みきれなくなり、出て行きました。そのころからこの街はかなり変わりましたね。昔から残っているのはウチくらいなものです。父が作った街だという歴史がなければ、とうに出て行ったでしょうね。以前は、皆さんの気が合っていて隣組を作り、戦争中の物のないころはおすそ分けもよくしたものでした。心温まる豊かで静かな田園都市でした。どうも最近は、周囲を思いやる心がなくなりました。」

【駅舎・ジグス堂】

 田園調布駅東口にあった。鉄道の地下化工事による駅舎改築で作り直された。駅前の池も復活され、現在も田園調布のシンボルになっている。






 「ジグスというのは新聞の漫画の主人公で、たしか朝日新聞の「ペギーとジグス」でした。ジグスは失敗ばかりするので父が面白がってつけたのです。最初は食堂でした。住民の集会にも使われました。最後は駅員の宿舎のようになりました。」
 
※写真は当時の田園調布駅舎



【多摩川園遊園地】
 多摩川台を南に下がった一帯は水が湧き「底なし田圃」と呼ばれ、水が湧くため、足場を組まないと田植えもできない湿地帯だった。埋め立てても住宅地にはできないため、秀雄氏はここに多摩川園遊園地を作った。「夢のお城」と呼ばれた建物には湧き水を沸かした、プールのような大浴場が作られたほか、大食堂も作られた。
 遊園地は1979年(昭和)54年)にテニスコートに姿を変え、今はもうない。東横線の駅名も遊園地が盛んなころは「多摩川園前」、テニスコート時代は「多摩川園」、いまは最初の「多摩川」に戻った。

 「大食堂には修学旅行の学生が、団体で連れてこられて食べたものでした。小さなプールのような風呂では泳いだりしました。おじいさん(渋沢栄一翁)が孤児院の子供を招いて1日遊ばせたこともありました。昭和30年ころに燃えてしまいましたが。」





【田園コロシアム】

 多摩川園遊園地がテニスクラブに変わって10年、田園コロシアムもまた、その歴史を閉じた。戦後テニスの試合がよく行われたテニスのメッカで、“高級住宅地・田園調布”にお似合いだった。コロシアム解体後は、田園テニス倶楽部となっている。田園コロシアム以前のグラウンドは一時、慶応大学のホームグラウンド調布球場となり、1924年=大正13年=秋から)1925年=大正15年=春まで使われた。


 「昔は大根畑でした。最初は土のグラウンドで、開通間もない目蒲線の客寄せのための貸しグラウンドでした。田園都市会社には早稲田の野球部出身の人もいて、会社のチームもありました。慶応大学の三田グラウンドが廃止になり、新球場ができるまでの間は、短い期間ですが、慶応大学のホームグランドにもなりました。早慶戦も1回(1926年5月26日)ですが、行われました。」
 (大学野球に使われたのは、大正13年秋のシーズンからで、9月25日の対明治大学戦が最初。2−1で明治を下すなど5試合おこなった。14年春は4試合、14年秋5試合、15年春5試合。いずれも慶応大学と他校との試合が行われ、15年春は早稲田に2-0で敗北したが、春の覇者となった。)





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